日本北朝年号列表
外观
日本自第三十六代孝德天皇即位并建元大化起开始使用年号(日语:年号/ねんごう Nengō、元号/げんごう Gengō)为其纪年方式,并在文武天皇于701年5月3日(大宝元年三月二十一日)再度恢复使用年号后,一直持续使用年号至今[1]。光严天皇为日本南北朝时代中由持明院统系担任天皇的北朝的首任天皇,受镰仓幕府拥立[2]。他在1332年5月23日(元德四年/元弘二年四月二十八日)改元正庆,惟在1333年7月7日(正庆二年/元弘三年五月二十五日)被后醍醐天皇废位[3][4]。光严天皇之弟光明天皇在后醍醐天皇的建武新政失败后受足利氏拥立继位为北朝天皇[5],并在1338年10月11日(建武五年/延元三年八月二十八日)改元历应[6]。直至1392年11月12日(明德三年/元中九年闰十月初五日)《明德和约》缔结后,南朝“元中”年号遭废止,日本才终结了两个年号并立的局面[7]。
日本的年号常取中国古籍中的辞句为典故,而改元的原因除天皇即位外,多数出于迷信及牵强附会。因天皇即位而进行的改元通常在天皇即位翌年进行,但有时候也会因为乱世而不在天皇即位翌年改元。日本自醍醐天皇起开始因“辛酉革命”的缘故在辛酉年进行改元(当时为901年,由昌泰四年改元延喜),并自村上天皇起开始因“甲子革令”的缘故在甲子年进行改元(当时为964年,改元康保)。日本自醍醐天皇起也会因灾祸等不祥之事而改元(当时为923年,改元延长)。[8]
以下列表仅收录北朝启用的日本年号。以下列表中,各年号的使用期与典故主要出自小学馆出版的《日本大百科全书》,而每个年号的典故都分别附上维基文库的文本链接供参考。
列表
[编辑]年号 | 使用期 (西历年月日) |
使用期 (和历年月日) |
在位天皇 | 改元理由 | 典故 | 南朝天皇 | 参考 来源 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
正庆 | 1332年5月23日 - 1333年7月7日 |
元年四月二十八日 - 二年五月二十五日 |
光严天皇 | 光严天皇即位 | 《周易正义·益》:“以中正有庆之德,有攸往也,何适而不利哉!”[9] | 后醍醐天皇[10] | [3][4] |
后醍醐天皇废止北朝“正庆”年号,并施行建武新政(1333年7月8日-1338年10月10日[注 1]) | [4][11] | ||||||
历应 | 1338年10月11日 - 1342年5月31日 |
元年八月二十八日 - 五年四月二十六日 |
光明天皇 | 光明天皇即位 | 《太平御览·天部四·月》:“《帝王世纪[注 2]》曰:‘尧时有草夹阶而生……王者以是占历……应和……而生。’”[13] | [12] | |
后村上天皇[14] | |||||||
康永 | 1342年6月1日 - 1345年11月14日 |
元年四月二十七日 - 四年十月二十日 |
天变 地妖 |
《汉书》:“海内康平[注 3]……永保国家[注 4]。” | [17] | ||
贞和 | 1345年11月15日 - 1350年4月3日 |
元年四月二十七日 - 六年二月二十六日 |
天变 水害 疾疫 |
《艺文类聚·帝王部·后汉光武帝》:“体乾灵之休德,禀贞和之纯精。”[18] | [19] | ||
崇光天皇 | |||||||
观应 | 1350年4月4日 - 1352年11月3日 |
元年二月二十七日 - 三年九月二十六日 |
崇光天皇即位 | 《庄子·外篇·天地·疏》:“玄古之君天下,无为也……〔疏〕以虚通之理,观应物之数,而无为。”[20] | [21] | ||
后光严天皇 | |||||||
文和 | 1352年11月4日 - 1356年4月28日 |
元年九月二十七日 - 五年三月二十七日 |
后光严天皇即位 | [24] | |||
延文 | 1356年4月29日 - 1361年5月3日 |
元年三月二十八日 - 六年三月二十八日 |
兵革 | 《汉书·儒林传》:“延文学儒者以百数。”[25] | [26] | ||
康安 | 1361年5月4日 - 1362年10月10日 |
元年三月二十九日 - 二年九月二十二日 |
兵革 天变 地妖 疾疫 |
[28][30] | |||
贞治 | 1362年10月11日 - 1368年3月6日 |
元年九月二十三日 - 七年二月十七日 |
兵革 天变 地震 疫病流行 |
《周易·巽》:“利武人之贞,志治也。”[31] | [32] | ||
应安 | 1368年3月7日 - 1375年3月28日 |
元年二月十八日 - 八年二月二十六日 |
病患 天变地异 |
《毛诗正义·江汉》:“今四方既已平服,王国之内幸应安定。”[33] | [34] | ||
长庆天皇[35] | |||||||
后圆融天皇 | |||||||
永和 | 1375年3月29日 - 1379年4月8日 |
元年二月二十七日 - 五年三月二十一日 |
后圆融天皇即位 | [36] | |||
康历 | 1379年4月9日 - 1381年3月19日 |
元年三月二十二日 - 三年二月二十三日 |
天变 疾疫 兵革 |
《旧唐书》:“承成康之历业。”[注 8] | [40][41] | ||
永德 | 1381年3月20日 - 1384年3月18日 |
元年二月二十四日 - 四年二月二十六日 |
辛酉革命 | 《群书治要·卷第十七》:“帝永思至德以承天心。”[42] | [43] | ||
后小松天皇 | |||||||
后龟山天皇[44] | |||||||
至德 | 1384年3月19日 - 1387年10月4日 |
元年二月二十七日 - 四年八月二十二日 |
甲子革令 | 《孝经·开宗明义[注 9]章》:“先王有至德要道,以训天下,民用和睦,上下亡怨。”[45][注 10] | [47] | ||
嘉庆 | 1387年10月5日 - 1389年3月6日 |
元年八月二十三日 - 三年二月初八日 |
后小松天皇即位 疾疫流行 |
《毛诗正义·载芟》:“将有嘉庆祯祥先来见也。”[48] | [49] | ||
康应 | 1389年3月7日 - 1390年4月11日 |
元年二月初九日 - 二年三月二十五日 |
病事[注 11] | 《文选·七启八首》:“国富民康。神应休臻,屡获嘉祥。”[51] | [52] | ||
明德 | 1390年4月12日 - 1394年8月1日 |
元年三月二十六日 - 五年七月初四日 |
天变 兵革 |
《礼记·大学》:“大学之道,在明明德,在亲民。”[53] | [54] | ||
(无)[注 12] |
注释
[编辑]- ^ 后醍醐天皇于1334年3月5日(元弘四年正月二十九日)改元建武,后于1336年4月11日(建武三年二月二十九日)再改元延元,惟北朝未有跟随,并在1338年10月11日(建武五年/延元三年八月二十八日)另行改元历应。[6]
- ^ 《日本大百科全书》作“代记”。[12]
- ^ 见于《汉书·宣帝纪》。[15]
- ^ 见于《汉书·师丹传》。[16]
- ^ 《日本大百科全书》作“作治康凯安之舞”。[28]
- ^ 《史记正义》实际文本未见此句。[29]
- ^ 《日本大百科全书》作“歌”。[36]
- ^ 《旧唐书》实际文本未见此句。[39]
- ^ 古文《孝经》作“谊”。[45]
- ^ 今文《孝经》作“先王有至德要道,以顺天下,民用和睦,上下无怨。”[46]
- ^ “病事”指1388年(嘉庆二年)近卫兼嗣及二条良基两任摄关相继去世一事。[50]
- ^ 后龟山天皇于1392年11月12日(明德三年/元中九年闰十月初五日)退位,并将三神器让予后小松天皇,南北朝统一。[7]
参考资料
[编辑]- ^ 森本 1933,第3, 160页.
- ^ 小学馆 1994,北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。.
- ^ 3.0 3.1 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】光厳(こうごん)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕元弘(げんこう)2年(1332)4月28日正慶と改元、正慶2年(1333)5月廃止(元弘3年に復す)〔出典〕『易経』益卦(えきか)の注「以中正有慶之徳、有攸往也、何適而不利哉」による.
- ^ 4.0 4.1 4.2 デジタル大辞泉. 小学馆. 2012.
鎌倉末期、光厳天皇の時の年号。1332年4月28日~1333年5月25日。しょうけい。
- ^ 小学馆 1994,北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁(とよひと)。法名真常恵。後伏見(ごふしみ)天皇の第2皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。光厳(こうごん)天皇の弟で、その猶子(ゆうし)となった。建武中興(けんむのちゅうこう)崩壊ののち、足利(あしかが)氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光(すこう)天皇に譲った。.
- ^ 6.0 6.1 小学馆 1994,〔改元年月日〕元弘(げんこう)4年(1334)1月29日建武と改元、建武3年(1336)2月29日延元(えんげん)と改む、北朝では建武5年(1338)8月28日暦応(りゃくおう)と改む.
- ^ 7.0 7.1 日本の元号がわかる事典. 讲谈社.
しかし、1392年(元中9/明徳3)閏10月5日、吉野から京都に帰還した後亀山天皇が退位し、三種の神器が後小松天皇に渡されたことにより、半世紀におよぶ南北朝対立が終わった。「元中」の元号も廃され、「明徳」を使用することになった。
- ^ 森本 1933,第3, 7-8, 10-12页.
- ^ 孔颖达. 益. 维基文库, 4.
- ^ 小学馆 1994,1339年(延元4・暦応2)義良親王(のりよししんのう)(後村上天皇(ごむらかみてんのう))に譲位、同年52歳で死去した。.
- ^ 日本の元号がわかる事典. 讲谈社.
光厳の退位にともない正慶の元号も廃止(無効)となり、元弘に復帰した。◇「しょうけい」とも読む。
- ^ 12.0 12.1 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】光明(こうみょう)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕建武(けんむ)5年(1338)8月28日暦応と改元、暦応5年(1342)4月27日康永(こうえい)と改む〔出典〕『帝王代記』の「堯時有草、夾階而生、王者以是占暦、応和而生」によるという.
- ^ 皇甫谧. 月. 维基文库, 4.
- ^ 小学馆 1994,正平(しょうへい)23年3月11日摂津国住吉の行宮(あんぐう)で没した。.
- ^ 班固. 宣帝紀. 维基文库, 8.
- ^ 班固. 師丹傳. 维基文库, 86.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】光明(こうみょう)〔改元理由〕天変、地妖(ちよう)による〔改元年月日〕暦応(りゃくおう)5年(1342)4月27日康永と改元、康永4年(1345)10月21日貞和(じょうわ)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』の「海内康平、永保国家」によるという.
- ^ 欧阳询. 後漢光武帝. 维基文库, 12.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】光明(こうみょう)、崇光(すこう)〔改元理由〕天変、水害、疾疫による〔改元年月日〕康永(こうえい)4年(1345)10月21日貞和と改元、貞和6年(1350)2月27日観応(かんのう)と改む〔出典〕『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』帝王部の「体乾霊之休徳、稟貞和之純精」による.
- ^ 成玄英. 天地. 维基文库, 12.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】崇光(すこう)、後光厳(ごこうごん)〔改元理由〕崇光天皇の即位による〔改元年月日〕貞和(じょうわ)6年(1350)2月27日観応と改元、観応3年(1352)9月27日文和(ぶんな)と改む〔出典〕『荘子(そうじ)』外篇(がいへん)天地の「玄古之君天下無為也、疏曰、以虚通之理、観応物之数而無為」による.
- ^ 刘昫. 順宗紀. 维基文库, 14.
- ^ 陈寿. 孫權傳. 维基文库, 47.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後光厳(ごこうごん)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕観応(かんのう)3年(1352)9月27日文和と改元、文和5年(1356)3月28日延文(えんぶん)と改む〔出典〕『旧唐書(くとうじょ)』巻14順宗紀の「叡哲温文、寛和仁恵」、『三国志』呉志・孫権伝の「文和於内、武信于外」による.
- ^ 班固. 儒林傳. 维基文库, 88.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後光厳(ごこうごん)〔改元理由〕兵革による〔改元年月日〕文和(ぶんな)5年(1356)3月28日延文と改元、延文6年(1361)3月29日康安(こうあん)と改む〔出典〕『漢書(かんじょ)』巻88儒林伝の「延文学儒者以百数」による.
- ^ 刘昫. 音樂一. 维基文库, 28.
- ^ 28.0 28.1 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後光厳(ごこうごん)〔改元理由〕兵革、天変、地妖(ちよう)、疾疫などによる〔改元年月日〕延文(えんぶん)6年(1361)3月29日康安と改元、康安2年(1362)9月23日貞治(じょうじ)と改む〔出典〕『旧唐書(くとうじょ)』巻28の「作治康凱安之舞」、『史記正義』の「天下衆事咸得康安、以致天下太平」によるという.
- ^ 张守节. 史記正義. 维基文库.
- ^ 森本 1933,第300-301页.
- ^ 巽. 维基文库, 57.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後光厳(ごこうごん)〔改元理由〕兵革、天変、地震、疫病の流行による〔改元年月日〕康安(こうあん)2年(1362)9月23日貞治と改元、貞治7年(1368)2月18日応安(おうあん)と改む〔出典〕『易経』象(しょう)下の「利武人之貞、志治也」による.
- ^ 孔颖达. 江漢. 维基文库, 18.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後光厳(ごこうごん)、後円融(ごえんゆう)〔改元理由〕病患、天変地異による〔改元年月日〕貞治(じょうじ)7年(1368)2月18日応安と改元、応安8年(1375)2月27日永和(えいわ)と改む〔出典〕『毛詩(もうし)正義』大雅江漢の「今四方既已平、服王国之内、幸応安定」による.
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. 大英百科全书公司. 2014 [2020-11-09]. (原始内容存档于2016-03-12).
正平 23=応安1 (68) 年父帝の死没のあとをうけて践祚。次いで同母皇弟煕成親王を皇太弟とし,弘和3=永徳3 (83) 年から翌年の元中1=至徳1 (84) 年の間に皇太弟すなわち後亀山天皇に譲位した。
- ^ 36.0 36.1 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後円融(ごえんゆう)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕応安(おうあん)8年(1375)2月27日永和と改元、永和5年(1379)3月22日康暦(こうりゃく)と改む〔出典〕『書経』舜典(しゅんてん)の「詩言志、歌永言、声依永、律和歌、八音克諧、無相奪倫、神人以和」、『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』巻8の「九功六義之興、依永和声之製、志由興作、情以詞宣」による.
- ^ 舜典. 维基文库.
- ^ 欧阳询. 虎丘山. 维基文库, 8.
- ^ 刘昫. 舊唐書. 维基文库.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後円融(ごえんゆう)〔改元理由〕天変、疾疫、兵革による〔改元年月日〕永和(えいわ)5年(1379)3月22日康暦と改元、康暦3年(1381)2月24日永徳(えいとく)と改む〔出典〕『旧唐書(くとうじょ)』の「承成康之暦業」によるという.
- ^ 森本 1933,第303页.
- ^ 魏徵. 卷第十七. 维基文库, 17.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後円融(ごえんゆう)、後小松(ごこまつ)〔改元理由〕辛酉(しんゆう)革命による〔改元年月日〕康暦(こうりゃく)3年(1381)2月24日永徳と改元、永徳4年(1384)2月27日至徳(しとく)と改む〔出典〕不明、『群書治要』巻17に「帝永思至徳以承天心」とある.
- ^ 小学馆 1994,1383年(弘和3・永徳3)のころ、兄長慶(ちょうけい)天皇の後を受けて皇位につき、南朝の行宮(あんぐう)にあったが、92年(元中9・明徳3)閏(うるう)10月、北朝後小松(ごこまつ)天皇との間に合一の和議が成立して帰京し、嵯峨(さが)の大覚寺に入り、神器を後小松天皇に譲った(南北朝合一)。.
- ^ 45.0 45.1 開宗明誼章. 维基文库.
- ^ 開宗明義章. 维基文库.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後小松(ごこまつ)〔改元理由〕甲子(かっし)革令による〔改元年月日〕永徳(えいとく)4年(1384)2月27日至徳と改元、至徳4年(1387)8月23日嘉慶(かけい)と改む〔出典〕『孝経』開宗明義章(めいぎしょう)の「先王有至徳要道、以訓天下、民用和睦、上下亡怨」による.
- ^ 孔颖达. 載芟. 维基文库, 19.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後小松(ごこまつ)〔改元理由〕即位と疾疫の流行による〔改元年月日〕至徳(しとく)4年(1387)8月23日嘉慶と改元、嘉慶3年(1389)2月9日康応(こうおう)と改む〔出典〕『毛詩(もうし)正義』の「将有嘉慶、禎祥先来見也」によるという.
- ^ 北爪真佐夫. 元号と武家. 文士と御家人―中世国家と幕府の吏僚. 2002. ISBN 978-4-921145-13-2.
- ^ 曹植. 七啟八首. 维基文库, 34.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後小松(ごこまつ)〔改元理由〕病事による〔改元年月日〕嘉慶(かけい)3年(1389)2月9日康応と改元、康応2年(1390)3月26日明徳(めいとく)と改む〔出典〕『文選(もんぜん)』巻8七啓の「国富民康、神応烋臻、屡獲嘉祥」による.
- ^ 戴圣. 大學. 维基文库, 42.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【北朝】後小松(ごこまつ)〔改元理由〕天変、兵革による〔改元年月日〕康応(こうおう)2年(1390)3月26日明徳と改元、明徳5年(1394)7月5日応永(おうえい)と改む〔出典〕『礼記(らいき)』大学の「大学之道、在明明徳、在親民」による.
参考书籍
[编辑]- 森本角藏. 日本年號大觀. 东京: 目黑书店. 1933-07-01. doi:10.11501/1688696.
- 日本大百科全書. 小学馆. 1994-01-20.
参见
[编辑]