日本南朝年号列表
外观
日本自第三十六代孝德天皇即位并建元大化起开始使用年号(日语:元号/げんごう Gengō)为其纪年方式,并在文武天皇于701年5月3日(大宝元年三月二十一日)再度恢复使用年号后,一直持续使用年号至今[1]。后醍醐天皇为日本南北朝时代中由大觉寺统系担任天皇的南朝的首任天皇[2],他在1333年7月8日(元弘三年/正庆二年五月二十六日)废止受镰仓幕府拥立、由持明院统系担任天皇的北朝的首任天皇光严天皇的“正庆”年号[3][4][5],于1334年3月5日(元弘四年正月二十九日)改元建武[6],施行建武新政[2]。建武新政失败后,后醍醐天皇于1336年4月11日(建武三年二月二十九日)再改元延元,惟受足利氏拥立继位为北朝天皇的光明天皇[7]未有跟随,并在1338年10月11日(建武五年/延元三年八月二十八日)另行改元历应[6]。直至1392年11月12日(明德三年/元中九年闰十月初五日)《明德和约》缔结后,南朝“元中”年号遭废止,日本才终结了两个年号并立的局面[8]。
日本的年号常取中国古籍中的辞句为典故,而改元的原因除天皇即位外,多数出于迷信及牵强附会。因天皇即位而进行的改元通常在天皇即位翌年进行,但有时候也会因为乱世而不在天皇即位翌年改元。日本自醍醐天皇起开始因“辛酉革命”的缘故在辛酉年进行改元(当时为901年,由昌泰四年改元延喜),并自村上天皇起开始因“甲子革令”的缘故在甲子年进行改元(当时为964年,改元康保)。日本自醍醐天皇起也会因灾祸等不祥之事而改元(当时为923年,改元延长)。[9]
以下列表仅收录南朝(包括建武新政时期)启用的日本年号。以下列表中,各年号的使用期与典故主要出自小学馆出版的《日本大百科全书》,而每个年号的典故都分别附上维基文库的文本链接供参考。
列表
[编辑]年号 | 使用期 (西历年月日) |
使用期 (和历年月日) |
在位天皇 | 改元理由 | 典故 | 北朝天皇 | 参考 来源 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
建武 | 1334年3月5日 - 1336年4月10日[注 1] |
元年正月二十九日 - 三年二月二十八日[注 1] |
后醍醐天皇 | 扰乱归正 | 《后汉书·光武帝纪上》:“建元为建武。”[10][注 2] | (无)[注 3] | [6] |
延元 | 1336年4月11日 - 1340年5月25日 |
元年二月二十九日 - 五年四月二十七日 |
兵革 | 《梁书》:“沈休文等奏言,圣德所被,上自苍苍,下延元元。”[注 4] | [12] | ||
光明天皇[7] | |||||||
后村上天皇 | |||||||
兴国 | 1340年5月25日 - 1347年1月19日 |
元年四月二十八日 - 七年十二月初七日 |
后村上天皇即位 | 《文选·讽谏》:“兴国救颠,孰违悔过?”[13] | [14] | ||
正平 | 1347年1月20日 - 1370年8月15日 |
元年十二月初八日 - 二十五年七月二十三日 |
(无) | 《宋书·符瑞下》:“华平,其枝正平,王者有德则生。”[15] | [16] | ||
崇光天皇[17] | |||||||
后光严天皇[18] | |||||||
长庆天皇 | |||||||
建德 | 1370年8月16日 - 1372年4月25日 |
元年七月二十四日 - 三年三月二十一日 |
(无) | 《文选·吴都赋》:“建至德以创洪业。”[19] | [20][21] | ||
后圆融天皇[22] | |||||||
文中 | 1372年4月26日 - 1375年6月25日 |
元年三月二十二日 - 四年五月二十六日 |
(无) | 《周易·坤》:“黄裳元吉,文在中也。”[23][注 5] | [24][21] | ||
天授 | 1375年6月26日 - 1381年3月5日 |
元年五月二十七日 - 七年二月初九日 |
山崩 地妖 |
《史记·淮阴侯列传》:“且陛下所谓天授,非人力也。”[25] | [26] | ||
弘和 | 1381年3月6日 - 1384年5月17日 |
元年二月初十日 - 四年四月二十七日 |
辛酉革命 | 《尚书·周书·君牙》:“弘敷五典,式和民则。”[27] | [28] | ||
后小松天皇[29] | |||||||
后龟山天皇 | |||||||
元中 | 1384年5月18日 - 1392年11月12日 |
元年四月二十八日 - 九年闰十月初五日 |
甲子革令 | [30][8] |
注释
[编辑]- ^ 1.0 1.1 北朝未有跟随南朝于1336年4月11日(建武三年二月二十九日)改元延元,并在1338年10月11日(建武五年/延元三年八月二十八日)另行改元历应。[6]
- ^ 此典故中的“建武”为东汉光武帝的同名年号,同时作为改元的另一典故。[10][6]
- ^ 后醍醐天皇在1333年7月8日(元弘三年/正庆二年五月二十六日)废止受镰仓幕府拥立、由持明院统系担任天皇的北朝的首任天皇光严天皇[3][4][5],而受足利氏拥立继位为北朝天皇的光明天皇于1336年(建武三年/延元元年)方继位[7],期间后醍醐天皇一统日本,并施行建武新政[2]。
- ^ 《梁书》实际文本未见此句。[11]
- ^ 5.0 5.1 长庆天皇的年号“文中”和后龟山天皇的年号“元中”均以《周易·坤》的同一句为典故。[24][30][31]
参考资料
[编辑]- ^ 森本 1933,第3, 160页.
- ^ 2.0 2.1 2.2 小学馆 1994,いわゆる「建武中興(けんむのちゅうこう)」を実現した天皇。.
- ^ 3.0 3.1 小学馆 1994,北朝第1代の天皇(在位1331~33)。名は量仁(ときひと)。法名勝光智、のちに光智。後伏見(ごふしみ)天皇の第1皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。元弘(げんこう)の変中鎌倉幕府の推戴(すいたい)によって皇位についたが、まもなく形勢が逆転し、六波羅探題(ろくはらたんだい)北条氏一族に奉ぜられて東国に逃れる途中、官軍に敗れて帰京した。その間に後醍醐(ごだいご)天皇から廃位せしめられた。.
- ^ 4.0 4.1 日本の元号がわかる事典. 讲谈社.
光厳の退位にともない正慶の元号も廃止(無効)となり、元弘に復帰した。◇「しょうけい」とも読む。
- ^ 5.0 5.1 デジタル大辞泉. 小学馆. 2012.
鎌倉末期、光厳天皇の時の年号。1332年4月28日~1333年5月25日。しょうけい。
- ^ 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】後醍醐(ごだいご)〔改元理由〕擾乱(じょうらん)帰正による〔改元年月日〕元弘(げんこう)4年(1334)1月29日建武と改元、建武3年(1336)2月29日延元(えんげん)と改む、北朝では建武5年(1338)8月28日暦応(りゃくおう)と改む〔出典〕後漢(ごかん)の光武帝のときの年号による、『後漢書(ごかんじょ)』巻1光武帝紀に「建元為建武」とある.
- ^ 7.0 7.1 7.2 小学馆 1994,北朝第2代の天皇(在位1336~48)。名は豊仁(とよひと)。法名真常恵。後伏見(ごふしみ)天皇の第2皇子。母は広義門院寧子(やすこ)。光厳(こうごん)天皇の弟で、その猶子(ゆうし)となった。建武中興(けんむのちゅうこう)崩壊ののち、足利(あしかが)氏に擁せられて皇位につき、のちこれを崇光(すこう)天皇に譲った。.
- ^ 8.0 8.1 日本の元号がわかる事典. 讲谈社.
しかし、1392年(元中9/明徳3)閏10月5日、吉野から京都に帰還した後亀山天皇が退位し、三種の神器が後小松天皇に渡されたことにより、半世紀におよぶ南北朝対立が終わった。「元中」の元号も廃され、「明徳」を使用することになった。
- ^ 森本 1933,第3, 7-8, 10-12页.
- ^ 10.0 10.1 李贤. 光武帝紀上. 维基文库, 1上.
- ^ 姚思廉. 梁書. 维基文库.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】後醍醐(ごだいご)、後村上(ごむらかみ)〔改元理由〕兵革による〔改元年月日〕建武(けんむ)3年(1336)2月29日延元と改元、延元5年(1340)4月28日興国(こうこく)と改む〔出典〕『梁書(りょうしょ)』の「沈休文等奏言、聖徳所被、上自蒼蒼、下延元元」によるという.
- ^ 韦孟. 諷諫. 维基文库, 19.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】後村上(ごむらかみ)〔改元理由〕即位による〔改元年月日〕延元(えんげん)5年(1340)4月28日興国と改元、興国7年(1346)12月8日正平(しょうへい)と改む〔出典〕不明、『文選(もんぜん)』巻5諷諫(ふうかん)詩に「興国救顛、孰違悔過」とある.
- ^ 沈约. 符瑞下. 维基文库, 29.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】後村上(ごむらかみ)〔改元理由〕不明〔改元年月日〕興国(こうこく)7年(1346)12月8日正平と改元、正平25年(1370)7月24日建徳(けんとく)と改む〔出典〕不明、『宋書(そうじょ)』巻29に「華平其枝正平、王者有徳則生」とある.
- ^ 小学馆 1994,北朝第3代天皇(在位1348~51)。名は興仁(おきひと)、益仁(ますひと)、伏見(ふしみ)殿。光厳(こうごん)天皇の第1皇子。母は陽禄門院藤原秀子(父正親町公秀(おおぎまちきんひで))。1338年(暦応1)8月立太子、48年(貞和4)10月践祚(せんそ)、翌年12月即位した。51年(観応2)足利(あしかが)一門の内紛に伴い南北の一時的和議がなると、南朝の後村上(ごむらかみ)天皇が京都に迎えられ、崇光天皇は廃位され、太上天皇の尊号を受けた。.
- ^ 小学馆 1994,北朝第4代の天皇(在位1352~71)。名は弥仁(いやひと)。法名光融。光厳天皇の第2皇子。母は陽禄門院(ようろくもんいん)秀子。南朝後村上(ごむらかみ)天皇の天下一統が破れ、足利(あしかが)氏がふたたび北朝を樹立することになり、その要請により、親王宣下(せんげ)もなく、また神器もなくして、広義門院(こうぎもんいん)(後伏見(ごふしみ)天皇の女御)の院宣で皇位についた。.
- ^ 左思. 吳都賦. 维基文库, 5.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】長慶(ちょうけい)〔改元理由〕不明〔改元年月日〕正平(しょうへい)25年(1370)7月24日建徳と改元、建徳3年(1372)4月(日不明)文中(ぶんちゅう)と改む〔出典〕『文選(もんぜん)』巻2の「建至徳以創洪業」による.
- ^ 21.0 21.1 森本 1933,第249-250页.
- ^ 小学馆 1994,北朝第5代天皇(在位1371~82)。名は緒仁(おひと)、法名光浄。後光厳(ごこうごん)天皇の第2皇子。母は崇賢門院藤原仲子(父広橋兼綱)。1371年(応安4)3月践祚(せんそ)、74年12月即位した。82年(永徳2)太子幹仁(もとひと)(後小松(ごこまつ)天皇)に譲位、院政を行った。.
- ^ 23.0 23.1 坤. 维基文库, 2.
- ^ 24.0 24.1 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】長慶(ちょうけい)〔改元理由〕不明〔改元年月日〕建徳(けんとく)3年(1372)4月(日不明)文中と改元、文中4年(1375)5月27日天授(てんじゅ)と改む〔出典〕不明、『易経』象(しょう)上に「黄裳元吉、文在中也」とある.
- ^ 司马迁. 淮陰侯列傳. 维基文库, 92.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】長慶(ちょうけい)〔改元理由〕山崩れ、地妖(ちよう)による〔改元年月日〕文中(ぶんちゅう)4年(1375)5月27日天授と改元、天授7年(1381)2月10日弘和(こうわ)と改む〔出典〕不明、『史記』巻92淮陰侯列伝に「且陛下所謂天授、非人力也」とある.
- ^ 君牙. 维基文库.
- ^ 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】長慶(ちょうけい)、後亀山(ごかめやま)〔改元理由〕辛酉(しんゆう)革命による〔改元年月日〕天授(てんじゅ)7年(1381)2月10日弘和と改元、弘和4年(1384)4月28日元中(げんちゅう)と改む〔出典〕不明、『書経』君牙篇(くんがへん)に「弘敷五典、式和民則」とある.
- ^ 小学馆 1994,初めは北朝第6代の天皇、のち第100代天皇(在位1382~1412)。名は幹仁(もとひと)。法名素行智。後円融(ごえんゆう)天皇の第1皇子。母は通陽門院藤原厳子(げんし)。父天皇の譲を受けて位につき、1392年(元中9・明徳3)閏(うるう)10月、南北両朝の合一により南朝後亀山(ごかめやま)天皇から神器を受け、後小松天皇の一統に帰した。1412年(応永19)位を皇子称光(しょうこう)天皇に譲って院政をとり、31年(永享3)出家後もこれを続け、永享(えいきょう)5年10月20日没す。御陵深草北陵に葬る。.
- ^ 30.0 30.1 小学馆 1994,〔天皇〕【南朝】後亀山(ごかめやま)〔改元理由〕甲子(かっし)革令による〔改元年月日〕弘和(こうわ)4年(1384)4月28日元中と改元、元中10年(1392)1月より北朝年号明徳(めいとく)(4年)を用いた〔出典〕不明、『易経』象(しょう)上伝に「黄裳元吉、文在中也」、「訟元吉以中正也」とある.
- ^ 森本 1933,第250-251页.
- ^ 訟. 维基文库, 6.
参考书籍
[编辑]- 森本角藏. 日本年號大觀. 东京: 目黑书店. 1933-07-01. doi:10.11501/1688696.
- 日本大百科全書. 小学馆. 1994-01-20.