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一期一振

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一期一振一期一振/いちごひとふり)是粟田口吉光所作的日本刀太刀[1]。被享保名物帐烧失之部所记载的名物[1]宫内厅将其编号为御物番号28‘山城国吉光御太刀’。刀名的意思是一生只作一振的太刀[1]

由来

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粟田口吉光是镰仓时代中期在山城国活跃的刀工,其锻造之日本刀,与正宗、乡义弘等被认为是名物三作,自古以来受到珍藏。粟田口吉光的作品大多数为短刀,而太刀却仅有一振(振为日本刀的量词),因此细川幽斋将其命名为“一期一振”[2]

由来有越前朝仓家传来、本阿弥祐德在堺市用银三十枚买入并被丰臣秀吉用金10枚要求上供、天正18年(1590年)由毛利家上供丰臣秀吉等,各种不同说法[1]

‘豊臣家御腰物帐’记载了丰臣家收藏的名刀,由一之箱至七之箱分门别类,而一期一振被收纳在最前的“一之箱”中,而其中也记载了骨喰藤四郎被收藏在接着的第二把[3][1]。此外,目贯(めぬき)与笄(こうがい)已经被后藤祐乘制作的配件替换[1]

大坂夏之阵时,大坂城陷落之际烧毁,初代越前康継(下坂康継)将其重新锻造[1][4]。此时原本二尺八寸三分的刀,磨制为二尺二寸三分,铭也变更为额铭,并记录在“享保名物帐”中[1][注释 1]。根据“骏府政事录”所述,大阪城陷落后隔二月的16日,由京都下坂,重新锻造遭毁的刀[1]。其后本作被保存于名古屋城,“名物帐”也分别记录了此刀为将军家和尾张家之物[1]

时至幕末文久3年(1863年)第15代尾张藩徳川茂徳将一期一振献上给孝明天皇。此后便成为御物[1],由历代天皇继承,上皇明仁在继承时,被列为御由绪物,属于日本相続税法第12条第1项第1号所规定的非课税继承财产。

作风

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刃长68.78公分、反2.58公分、茎反几乎没有、元幅3.18公分、先幅2.36公分、元重0.76公分、先重0.67公分、茎长17.27公分、切先长3.48公分[7]。镐造、庵栋、猪首切先。

作为御由绪物的刀剑,承担许多宫中祭祀等功能。御由绪物的一期一振,与1909年(明治42年)公爵伊藤博邦献上的相州行光太刀(御由绪物)共同在毎年10月17日进行的宫中神尝祭时被使用。

脚注

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注释

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  1. ^ 1615年(元和元年)5月7日の戦利品として徳川家康の元に渡り、喜んだ家康が明石全登の所持していたこの刀をどうやって入手したかを権田五太夫に寻ねたところ、全登の消息については确认が取れなかったとする异说も挙げられている[5]。福永は‘光徳刀絵図’の文禄3年(1594年)、文禄4年の押形は一致し、大阪城落城の后となる元和元年のものは帽子の状态が异なるものであったことから、落城后半年以内に本作が焼き直された证拠として1657年(明暦3年)の大火で焼けたとする说も误りとして否定した[5]。また福永は全登が逃亡のため意図的に置いて逃れたとの忆测を述べている[6]

出典

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  1. ^ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 福永 1993.
  2. ^ 柴田, 光男; 大河内, 常平, 趣味の日本刀, 雄山阁出版: 255, 2005, ISBN 4-639-01881-9 
  3. ^ 本阿弥光徳, 本间顺治 , 编, 光徳刀絵図集成, 便利堂, 1943 
  4. ^ 佐藤贯一, 康継大鑑, 日本美术刀剣保存协会: 101–102, 1960 
  5. ^ 5.0 5.1 福永 1993,第87页.
  6. ^ 福永 1993,第87-88页.
  7. ^ 本间顺治; 佐藤贯一, 日本刀大鑑 古刀篇1【図版】, 大冢巧艺社: 50, 1968-07 

参考文献

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关联文献

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