用户:Jdam-mk84/松岛基地
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松岛飞行场 Matsushima Air Field | |||||||||||||||
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概览 | |||||||||||||||
机场类型 | Military | ||||||||||||||
营运者 | Japan Air Self-Defense Force | ||||||||||||||
地理位置 | Higashimatsushima, Japan | ||||||||||||||
海拔高度 | 7英尺(2米) | ||||||||||||||
坐标 | 38°24′11″N 141°12′43″E / 38.40306°N 141.21194°E | ||||||||||||||
地图 | |||||||||||||||
跑道 | |||||||||||||||
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松岛基地(まつしまきち、英:JASDF Matsushima Airbase)は、宫城県东松岛市矢本に所在する航空自卫队の基地(军用飞行场)。基地司令は第4航空団司令が兼务。
所属する航空部队はF-2Bの操縦训练を実施する第21飞行队(第4航空団隶下)、自卫队の展示飞行队である第11飞行队(ブルーインパルス、第4航空団隶下)、捜索救难を行う松岛救难队(航空救难団隶下)である。
平时は戦闘机部队が利用することはないが、中国军およびロシア军が有する戦闘机の戦闘行动半径外にある地政学的条件を活かして、有事の际は北方からの胁威に袭われる千歳基地や三沢基地を支援する戦略拠点となる。
また、百里基地などの関东地方の各基地と青森県の三沢基地の中间に位置するため、天候不顺时に航空机が代替着陆する基地としても使用される。
历史
[编辑]基地としての历史は、日本海军の飞行场、松岛海军航空队矢本飞行场として始まる。この飞行场の建设は1938年(昭和13年)から始まり、1942年(昭和17年)に竣工した。当时、横须贺海军建设部の书记官一人が事前连络なしに当时の鹰来村を访れ、一方的に飞行场の建设を村の関系者に言い渡したという。完成した飞行场は、幅8メートル延长1550メートルの滑走路3本を持ち、戦闘、补给、管理の诸部队の兵员约1000名がここに勤务した。基地に配备された机体は、夜间戦闘机“月光”5ないし6机、爆撃机“银河”50机、一式陆上攻撃机20ないし30机である。また、第二〇一海军航空队や第七〇六海军航空队などが驻留した。1943年(昭和18年)には、现在の仙石线の前身である宫城电気铁道の矢本駅から矢本飞行场まで线路が引き込まれ、主に航空燃料の输送に使用された[2][3][4]。松岛海军航空队は豊桥海军航空队および松山海军航空队と共に陆攻队を编成して冲縄戦を戦い、约200名が戦死した。
矢本飞行场は1945年7月の7月14日、7月15日、7月17日の7月空袭があった。终戦前の昭和20年の8月9日と8月10日の爆撃の合计5回にわたってアメリカ军の空母舰载机による空袭を受けた。アメリカ军机の接近を察知できなかった飞行场の日本军机は一方的に破壊された[5]。
终戦后、矢本飞行场はアメリカ军に接収されて“松岛キャンプ”となり、ここにアメリカ军第11空挺师団の第188连队が进驻した。この部队はエアボーンを行う空挺兵の部队で、いわゆる落下伞部队である。进驻后、この部队は松岛キャンプで降下训练を行っていたが、既存の敷地では手狭と考え、飞行场周囲の土地を追加で接収した[6]。また、朝鲜戦争时には陆军工兵队の训练などに使われた[7]。1954年(昭和29年)6月1日に保安队の临时松岛派遣队が船冈驻屯地で编成されて、この部队は翌日に松岛キャンプに入った。同年7月に自卫队の発足に伴って、临时松岛派遣队は航空自卫队の部队となり、アメリカ军の指导の下で日本人パイロットの养成が始まった。そして1955年(昭和30年)に松岛キャンプはアメリカ军から日本に返还されて松岛基地となる[8]。
年表
[编辑]- 1938年(昭和13年) - 工事开始。
- 1942年(昭和17年) - 第1・第2滑走路が完成。
- 1943年(昭和18年) - 霞ヶ浦海军航空队松岛分遣队が开队。戦闘机搭乘员教育が行われた。
- 1944年(昭和19年) - 横须贺镇守府隶下で松岛海军航空队が开队。
- 1945年(昭和20年)
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 11月1日 - 第2操縦学校新编。松岛基地设置。
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1962年(昭和37年)
- 1971年(昭和46年)
- 7月1日 - 第4航空団第5飞行队闭队。第1航空団松岛派遣队编成。F-86Fによる教育训练开始。
- 7月30日 - 第1航空団松岛派遣队のF-86Fと全日空机が岩手県雫石上空で冲突(全日空机雫石冲突事故)。
- 1972年(昭和47年)
- 1月17日 - 第1航空団松岛派遣队のT-33Aによるパイロット养成开始。
- 1973年(昭和48年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)
- 1978年(昭和53年)
- 1982年(昭和57年)
- 1991年(平成3年)
- 7月4日 - 戦技研究班のT-2、2机が训练中に坠落。2名殉职。
- 1995年(平成7年)
- 12月22日 - 第21飞行队戦技研究班(T-2ブルーインパルス)が解散、第11飞行队(T-4ブルーインパルス)が新设。
- 2000年(平成12年)
- 7月4日 - 第11飞行队のT-4、2机が训练からの帰投中に坠落。3名が殉职する。
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2011年(平成23年)
- 3月11日 - 东北地方太平洋冲地震(东日本大震灾)に伴う津波により冠水、基地机能丧失。
- 2012年(平成24年)
- 4月19日 - F-2Bによる飞行训练再开。
- 2013年(平成25年)
- 2016年(平成28年)
- 2017年(平成29年)
- 8月27日 - “松岛基地航空祭”が7年ぶりに完全一般公开として复活、43,000人が来场。
- 2020年(令和2年)
东日本大震灾
[编辑]被害
[编辑]2011年(平成23年)3月11日14时46分顷に东北地方太平洋冲地震(东日本大震灾)が発生、东松岛市では震度6强を観测。14时50分、宫城県に15时00分に高さ6mの津波が到达するとの気象庁発表[16]。地震発生から约1时间10分后の15时54分顷、基地は高さ2m以上の津波に袭われた[17][18]。
本来なら震度5以上なら直ちに航空机で上空から被害确认にあたるが、天候による视界不良、津波到来の时刻が当初不明だったこと、揺れで捜索机の前轮がずれたこと、激しい余震が予期される中での救难ヘリコプターの离陆は回転翼が机体をたたく危険性があること、滑走路や诱导路に亀裂や断裂が生じている悬念の対策等から津波に袭われるまでに航空机を飞ばすことができず[19]、驻机场および格纳库に驻机していた航空机28机(F-2B戦闘机×18机、T-4练习机×4机、U-125A救难捜索机×2机、UH-60J救难ヘリコプター×4机)全てが水没し[20][21][22]、冠水のため基地机能も完全に丧失した(その后、水没した18机のF-2のうち修理可能な机体は13机と判明)。
当时基地で勤务していた队员约900名は建物屋上に避难し全员无事だったが、休暇中の队员1名が死亡した[23]。
ブルーインパルスは、震灾翌日に予定されていた九州新干线全线开业の祝贺飞行[24]のため3月10日から福冈県芦屋基地に展开していたため、被害を受けたのは基地に残っていた予备机1机のみであった。
复旧
[编辑]翌3月12日の夜明けより队员の手作业により滑走路の复旧に着手、同日午后には他基地から重机が到着し、复旧作业が本格化する一方で[25]、津波被害を免れた2台のトラックを救助活动に向かわせた。
3月15日に滑走路が复旧し(管制レーダーは使用不能)、翌3月16日5时50分にアメリカ空军第353特殊作戦群所属のMC-130Pが着陆、人员と机材を下ろし临时の管制机能を开设[26]、これにより松岛基地は救援物资の输送拠点として使用された[27]。
第21飞行队は、青森県の三沢基地へ移动して三沢移动训练队を编成、他部队のF-2Bを借り受け飞行教育を行う事とした。
2014年(平成26年)3月3日、被灾した旧管制塔に代わって建设された新管制塔の运用を开始した[28][29]。これにより、発灾以来、松岛基地で活动していた移动管制队は百里基地に帰还した[29]。また同月、松岛救难队と第11飞行队(ブルーインパルス)の新格纳库が完成した[29]。
2016年(平成28年)3月に驻机场を4mかさ上げする津波対策工事と新しい格纳库の建设が完了。同月には第21飞行队が松岛基地に帰还した[14]。帰还时は10机(内6机は修理完了机)のF-2Bで部队を稼动し、残り7机のF-2Bも2017年度中に修理され复帰した。
配置部队
[编辑]航空教育集団隶下
-
第21飞行队F-2B支援戦闘机
-
ブルーインパルスT-4练习机
航空総队隶下
航空支援集団隶下
-
U-125A
松岛救难队创设50周年记念涂装机 -
UH-60J
松岛救难队创设50周年记念涂装机
防卫大臣直辖部队
- (航空警务队)松岛地方警务队
クラブ活动
-
ブルーインパルスジュニア
航空祭
[编辑]毎年8月に开催。2006年(平成18年)から基地内驻车场を原则として廃止したため、JR矢本駅などを利用する、公共交通机関での来场を呼びかけていた。ブルーインパルスの展示飞行が催される。2019年开催の航空祭では5万6千人が来场したとされ、东松岛市最大のイベントとされる[30]。
2011年以降は东日本大震灾の影响により开催されていなかったが、2016年8月28日、事前公募9,000名と特别招待1,000名の计1万名に限定した“复兴感谢イベント”を开催。ブルーインパルスの展示飞行が本拠地にて约6年ぶりに行われた[30]。
2020年および2021年は、新型コロナウイルス感染症の世界的流行を受けて中止されていたが、2022年は入场を応募制にした上での开催となった[30]。
事故等
[编辑]- 1956年(昭和31年)6月26日 - 宫城県栗原郡若柳町(现:栗原市若柳)上空で训练中のT-64机のうち2机が空中接触し、それぞれ若柳町、迫町に坠落。両机の乘员1名が死亡(计2名)した。同地には死亡した教官2名の慰霊碑が有る。
- 1958年(昭和33年)5月21日 - 宫城県远田郡田尻町(现:大崎市田尻)の水田に训练中のT-61机が坠落。乘员1名が死亡した。同地には1983年に田尻町民によって建てられた顕彰碑が有る。
- 1960年(昭和35年)12月13日 - 宫城県涌谷町に训练中の松岛基地所属F-86F1机が坠落。乘员1名が死亡した。
- 1962年(昭和37年)6月12日 - 宫城県牡鹿郡上空で松岛基地所属F-86F2机が空中接触し坠落。両机とも乘员は脱出し无事であった。
- 1968年(昭和43年)1月17日 - 训练中のF-86F1机が田代峠に坠落。乘员1名が死亡した。
- 1971年(昭和46年)7月30日 - 岩手県雫石町上空で松岛基地所属のF-86F戦闘机と全日本空输(ANA)58便(机材:ボーイング727-200)が冲突し全日空机の乘客155名と乘员7名の计162名の全员が死亡した。自卫队机侧の乘员は脱出して无事であった。
- 1977年(昭和52年)8月31日 - 地上のT-2高等练习机から误って座席が射出。パラシュートが开かず教官1名が死亡した。
- 2000年(平成12年)
- 2003年(平成15年)7月26日 - 宫城県北部(鸣瀬町、矢本町、河南町周辺)を震源とした、震度5弱~震度6强の地震(宫城県北部地震)が连続して発生した。この地震の影响により松岛基地内も一部が损伤し、翌7月27日(日)に松岛基地航空祭が予定されていたが中止になった。基地内に设けられていた“航空祭対策本部”を“灾害対策本部”に替え、同基地所属の松岛救难队が情报収集に紧急発进した。しかし航空祭が中止になった事を知らずに多くの人が基地を访れてしまい、基地正面门前や最寄り駅に队员を派遣して、“航空祭は中止になりました”との呼びかけや対応を行った。
- 2014年(平成26年)1月29日 - 金华山冲の练习空域でT-4ブルーインパルス仕様机2机が训练中に空中で接触。松岛基地に紧急着陆し乘员は无事だった。
脚注
[编辑]- ^ AIS Japan Portuguese Web Archive的存档,存档日期2016-05-17
- ^ 廃线であり现存しない。
- ^ ‘矢本町史’第4巻375-378页。
- ^ ‘矢本町史’第3巻431页。
- ^ ‘矢本町史’第4巻452-453页。
- ^ ‘矢本町史’第5巻4-5页。
- ^ 日本语 Miyagi 1951 - 宫城 1951-Miyagi 1951 - 1951年3月から6月まで训练の合间に松岛や石巻を撮影した军医の写真を集めたページ
- ^ ‘矢本町史’第5巻377-378页。
- ^ 9.0 9.1 9.2 イカロス出版 JWing No.121 2008年9月号 52页 “集まれ!日本の戦闘机部队 航空自卫队、过去の戦闘机部队”
- ^ 10.0 10.1 10.2 10.3 イカロス出版 自卫队の名机シリーズ4 航空自卫队T-2/F-1 20页-21页 “历代F-1/T-2飞行队 第21飞行队”松崎豊一
- ^ イカロス出版 自卫队の名机シリーズ4 航空自卫队T-2/F-1 22页-23页 “历代F-1/T-2飞行队 第22飞行队”松崎豊一
- ^ イカロス出版 Jwing No.34 2001年6月号 10页-11页 “第22飞行队 解队记念行事”宫北正芳
- ^ イカロス出版 Jwing No.46 2002年6月号 19页-21页 “航空自卫队・松岛基地 临时教育F-2飞行队にF-2B到着!!”小栗义幸
- ^ 14.0 14.1 「困難を乗り越え、本日をもって松島基地は復興する」 帰ってきたF2戦闘機 第21飛行隊、訓練再開へ 宮城県. 产経新闻. 2016-03-20 [2016-03-20]. 已忽略文本“和书” (帮助)
- ^ 東京2020オリンピック聖火が日本に到着. 东京オリンピック・パラリンピック竞技大会组织委员会. 2020年3月20日 [2020年3月28日]. 已忽略文本“和书” (帮助)
- ^ 気象庁 - 平成23年 3月11日14时50分 気象庁発表
- ^ 东松岛市 - 松岛基地の基地机能の回复とT-4ブルーインパルス机の松岛基地での早期训练再开を要望する意见书
- ^ 毎日jp(毎日新闻) - 検证・大震灾:自卫队员10万人、史上最大の作戦(2)
- ^ 证言3・11:东日本大震灾 松岛基地、无念の全员退避 吹雪の中、迫る津波 飞べずに28机全灭毎日新闻 2012年4月29日
- ^ 空自松岛基地の全航空机水没2011年3月12日 日本経済新闻
- ^ F2戦闘机18机など水没 松岛基地 1机120亿円2011年3月12日 asahi.com(朝日新闻社)
- ^ 広田防卫政务官、“パイロット养成に支障、防空态势に困难” 松岛基地被灾で2011年3月22日 MSN产経ニュース
- ^ 朝云ニュース - 东日本大地震 松岛基地の机能回复
- ^ 3月11日の午前(大地震発生前)の事前飞行は行われたが、12日の祝贺飞行は自粛された
- ^ 东日本大地震 松岛基地の机能回复
- ^ ‘マンガでわかる日本の军事问题 トモダチ作戦!’ Col.AYABE (著)、2011年。ISBN 978-4-7986-0280-6。
- ^ 空自松岛基地の滑走路复旧 救援物资の输送拠点に - 东日本大震灾2011年3月16日 asahi.com(朝日新闻社) 2011年3月31日阅覧
- ^ 松岛基地松岛管制队. 松島管制隊. [2021-11-08]. 已忽略文本“和书” (帮助)
- ^ 29.0 29.1 29.2 元気です。松島基地. 防卫ホーム新闻社. 2014-10-15 [2021-11-08].
- ^ 30.0 30.1 30.2 松島基地航空祭、3年ぶり開催へ 感染対策で応募制に. 河北新报. 2022-07-11. 已忽略未知参数
|accesse-date=
(帮助)
参考文献
[编辑]- 矢本町教育委员会 ‘矢本町史’第3巻 矢本町、1976年。
- 矢本町教育委员会 ‘矢本町史’第4巻 矢本町、1986年。
- 矢本町教育委员会 ‘矢本町史’第5巻 矢本町、1988年。
関连项目
[编辑]- 航空自卫队の基地一覧
- 大日本帝国海军航空队一覧
- 田代峠 - 1968年(昭和43年)に当地で坠落死したF-86Fパイロット、纸西一等空尉の慰霊碑がある。
- 松岛タワー - 帰投时に航路目标物として利用されていた。