藤原俊成
外观
藤原俊成(1114年—1204年12月22日,永久2年-元久元年11月30日)是日本平安时代后期镰仓时代初期的公家、歌人,藤原北家御子左流、权大纳言藤原俊忠之子,初名显广。母亲是藤原敦家之女,有子藤原定家等,作为《千载和歌集》的作者而广为人知。
官历
[编辑]※日期=旧历
- 保安4年(1123年)7月9日 父・俊忠薨去
- 大治2年(1127年)1月19日 叙从五位下、美作守任官[1]
- 天承2年(1132年)闰4月4日 加贺守迁任
- 保延3年(1137年)12月16日 远江守迁任
- 永治2年(1142年)1月23日 远江守重任
- 久安元年(1145年)
- 11月23日 昇叙从五位上、远江守如元
- 12月30日 三河守迁任
- 久安5年(1149年)4月9日 丹后守迁任
- 久安6年(1150年)1月6日 昇叙正五位下、丹后守如元
- 久安7年(1151年)1月6日 昇叙从四位下、丹后守如元
- 仁平2年(1152年)12月30日 左京权大夫转任
- 久寿2年(1155年)10月23日 昇叙从四位上、左京权大夫如元
- 保元2年(1157年)10月22日 昇叙正四位下、左京权大夫如元
- 应保元年(1161年)9月19日 左京大夫迁任
- 永万2年(1166年)
- 1月12日 左京大夫辞任
- 改元仁安元年8月27日 从三位昇叙
- 仁安2年(1167年)
- 1月28日 正三位昇叙
- 12月24日 改名俊成
- 仁安3年(1168年)12月12日 右京大夫任官
- 嘉应2年(1170年)7月26日 皇后宫大夫(后白河院皇后[[藤原忻子)兼任
- 嘉应3年(1171年)1月18日 备前权守兼任
- 承安2年(1172年)2月10日 皇后・忻子成为皇太后、由皇后宫大夫异动为皇太后宫大夫
- 承安5年(1175年)12月8日 右京大夫卸任
- 安元2年(1176年)9月28日 出家。法名:释阿
- 元久元年(1204年)11月30日 薨去。享年91
脚注
[编辑]- ^ ‘公卿补任’
关连项目
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